「Boys, Be ambitious.」の真実

2026-aug-25th-ec

北海道大学の構内で、ふと足を止めました。
白い壁に、木枠の額。
中には、筆で書かれた英語。
「Boys, Be ambitious.」
署名は、Inazo Nitobe。新渡戸稲造です。
英語を筆で書く、という発想がまず素晴らしい。
アルファベットなのに、明らかに”書”になっている。
西洋の言葉を、日本の身体で書き取った——そんな一枚でした。

会っていなかった、という事実

嬉しくなって調べ始めたら、すぐに足元がぐらつきました。
新渡戸稲造は、クラーク博士に会っていません。
クラーク博士が札幌農学校にいたのは、わずか8ヶ月。
1877年(明治10年)4月16日、島松で学生たちに見送られ、馬上から一言を残して去っていきました。
新渡戸が二期生として入学したのは、その年の9月。完全な入れ違いです。
つまりこの額は、「会ったことのない人の言葉」を、「その場にいなかった人」が、筆で書き取って遺したものだった。
最初は肩透かしを食らった気分でした。
でも、しばらく眺めているうちに、逆だと気づきました。
会っていないのに、書いた。そちらの方が、よほどすごい話ではないか。

17年、埋もれていた言葉

さらに調べると、もっと意外な事実が出てきます。
この言葉、記録に最初に現れるのは1894年(明治27年)。
別れの日から、17年も経っています。
予科生だった安東幾三郎という学生が、校内誌『恵林』に書いた文章の中に登場するのが初出とされています。
同じ二期生の内村鑑三でさえ、1886年にアメリカの新聞へクラーク博士について寄稿した際、島松の別れには触れているのに、この言葉には言及していません。
北海道大学附属図書館の考証は、こう結んでいます。この言葉は長く埋もれたのち、農学校が基盤を固め、学生たちのあいだに自信と誇りが育った頃になって思い出され、特別な意味を与えられていった——と。
言葉が有名になったのではない。
言葉を必要とする人たちが、育ってきたのです。

有名な”続き”の正体

もうひとつ。
「Boys, be ambitious!」には続きがある、と習った方は多いはずです。
金のためでなく、利己的な栄達のためでもなく、名声という儚いもののためでもない——という、あの長い一節。
実はこの一節、本人が言った証拠が存在しないのです。
広く知られるようになったきっかけは、1964年3月16日の朝日新聞「天声人語」だとされています。そこから遡ると、昭和19年の研究書、さらに岩波『教育学辞典』(1936)、同文館『教育大辞書』(1918)へと辿り着きます。
ところが大正7年のその辞典では、この英文は「クラークが言った言葉」としてではなく、「この一言が意図している中身の解説」として書かれています。
それが後の版で「本人の別れの言葉」として紹介され、以来、一人歩きしたらしいのです。
英文を実際に書いた人物は、今も分かっていません。
しかも当のクラーク博士は、富や名誉を否定する人ではありませんでした。開校式の演説では、学生たちに向かって相応の資産も、不朽の名声も、責任ある地位も目指せと語っています。
むしろ、身分に縛られた社会から抜け出した若者たちに、堂々たる野心を持てと呼びかけた人でした。

それでも、言葉は残った

出典は怪しい。
記録は17年遅れている。
書いた人は、その場にいなかった。
それなのに、この一言は150年近く生き延びて、北海道の展望台に銅像を立てさせ、教科書に載り、今日、車いすの私を立ち止まらせている。
言葉は、発した人のものではないのだと思います。
受け取った人のものになって、初めて生き始める。
新渡戸稲造は、クラークに会わないまま、その言葉を自分のものにした。
そして筆を執り、次の誰かに渡るかたちにした。
志は、直接会わなくても伝わる。
むしろ、直接会わなかった人の手で、遠くまで運ばれる。

Boys and girls, be ambitious.

さて。
今この額を掲げるなら、当然こう書くでしょう。
Boys and girls, be ambitious.
でも、私はもう一歩進めたい。
年齢も、性別も、身体の状態も、住んでいる場所も関係なく、誰もが「自分は大志を抱いていい」と思える社会かどうか。大志を抱く自由は、本当に全員に開かれているのか。
大志は、能力の問題ではありません。「抱いてもいい」と思えるかどうかの問題です。
そして、それを阻んでいるのは多くの場合、本人ではなく、環境の側です。
段差。閉ざされた情報。届かない医療。
「あなたには無理でしょう」という、善意の顔をした決めつけ。
そこを一つずつ外していくのが、私の仕事だと思っています。
150年前の言葉に、そう背中を押された北大の午後でした。
【参考】北海道大学附属図書館「”Boys, be ambitious!”について」(図書館報『楡蔭』No.29/秋月俊幸)https://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/
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